冷蔵庫の扉を開けたまま、夫が「バターどこ?」と聞いてくる。妻からすれば、目の前の棚に置いてあるのに、なぜ見つからないのか理解できません。
わざと探していないのではないか。私を顎で使いたいだけではないか。そんな疑いまで湧いてくる。けれどアラン・ピーズ氏とバーバラ・ピーズ氏の『話を聞かない男、地図が読めない女』を読むと、これは怠慢でも悪意でもなく「脳の作りの違い」だとわかってきます。
本書は男女のすれ違いを進化と脳科学から解き明かした世界的ベストセラーで、軽快な語り口の科学エッセイです。著者の立場は最初からはっきりしている。
男女の違いは育て方や社会の刷り込みで作られるのではなく、胎児期に決まる脳の配線とホルモンに由来する、と。狩猟者と養育者という太古の役割分担が、男女の脳を別々の仕様へと進化させた——これが全編を貫く一本の柱です。
本書が刺さるのは、次のような場面に身に覚えのある人です。
- 悩みを聞いてほしくて話したのに、いきなり解決策を返されて「そうじゃない」とイラッとしたことがある
- パートナーが急に黙り込み、「私、何か悪いことした?」と不安になった経験がある
- 一緒にドライブして、地図やナビをめぐって険悪になったことがある
どれも、つい「相手が悪い」と感じてしまう場面です。本書はそこに「脳の作りが違うだけ」という、まったく別の説明を差し込んできます。原因を相手の人格や愛情の量に求めるのをやめると、不思議と腹が立たなくなる。ここに本書の実用的な価値があります。

「等しい」けれど「同質ではない」
本書の核心を一言にすると、男女は等しいが同質ではない、となります。権利や尊厳は完全に平等だが、脳の作りまで同じだとは限らない、という主張です。
著者が挑んだのは、刊行当時に主流だった「男女差は社会的な刷り込みで生まれる」という考え方でした。ピンクとブルーの服を着せ分けられるうちに、性差が後天的に形づくられていく——その見方を、著者は脳科学を根拠に真っ向から退けます。
男女の脳は受胎後6〜8週間でハードもソフトも設定された「設定済みの機械」のようなもので、生まれた時点ですでに配線が違う、と。
ここで著者が何度も念を押すのは、これは優劣の話ではないという一点です。男が得意なことと女が得意なことが違うだけで、どちらが上という物差しは存在しない。
狩猟者として磨かれた脳と、巣を守る養育者として磨かれた脳。役割が違えば得意分野も違って当然、というわけです。
それを象徴するのが、数とパフォーマンスが噛み合わない事実です。脳細胞の数は男のほうが40億個ほど多いとされるのに、知能テストの平均成績は女のほうが約3%高かったという報告がある。数が多ければ賢いという単純な話ではない。この一点だけでも、優劣の議論がいかに的外れかが見えてきます。
冷蔵庫のバターが見つからない理由
すべての土台になるのが、知覚と脳の処理の違いです。
男の視覚は「トンネル視」だと著者は言います。狩猟者として、遠くで動く獲物を正確にとらえるために発達した、トンネルの先だけを鋭く射抜く目です。
その代わり手元や広い範囲を見渡すのは苦手で、冷蔵庫の目の前にあるバターを平気で見落とす。一方の女の視覚は「周辺視野」。巣に迫る危険を察知するため、左右に最大180度近くを見渡せます。
家の中の物をパッと見つけられるのはこのためです。
処理の仕方も違います。鍵を握るのは左右の脳をつなぐ神経線維の束「脳梁」で、女のほうがこれが太く、左右の連絡が1.3倍ほどよいとされます。だから女は複数の作業を同時に走らせる「マルチトラック」が得意で、料理をしながら電話で話し、テレビの筋も追える。
対して男の脳は機能ごとにきっちり区分けされていて、一度にひとつのことしか扱えません。運転中に道を探すとき思わずラジオを消してしまうのも、テレビに集中していると話しかけても耳に入らないのも、冷たいのではなく脳がそういう作りだから、というわけです。
これを裏づける実験として、ペンシルバニア大学のグル教授による脳スキャンが紹介されます。休息中の脳を見ると、男は全体の約7割が活動を完全に停止していたのに対し、女は約9割が活動を続け、情報を分析していた。
何もしていないように見える時間でも、二人の頭の中身はまるで違う。妻が「ぼーっとしないで」と言いたくなる相手は、文字どおり脳がオフになっているのかもしれません。
色の見え方の違いも面白い。色を識別する錐状体細胞に関わるX染色体を女は2本持つため、細胞のバリエーションが多く、アクアや藤色といった微妙な色を呼び分けられる。男に「これはブルー? それともゴールド?」と尋ねても答えが返ってこない理由のひとつが、ここにあります。
会話の目的が、そもそも違う
タイトルの前半「話を聞かない男」は、この章が答えになります。
男と女では、会話に求めるものが根本から違う。女にとって会話は人間関係を築き、ストレスを解消するための手段であり、話すこと自体が目的になりうる。一方、男にとって会話は事実を伝え、問題を解決するための道具です。だから結論を急ぎ、用件を短く済ませたがる。
量の差がそれを物語ります。女は1日に、単語や声の調子、ボディランゲージを合わせて平均約2万回のコミュニケーションをするのに対し、男は約7000回。3倍近い開きがあります。この差を知らないまま同じ密度の会話を期待すると、片方が必ず疲弊する。
そして最大のすれ違いがここで起きます。女が悩みを打ち明けると、男の脳は「問題解決マシン」として反応し、話をさえぎってアドバイスを始めてしまう。
けれど女が求めていたのは解決策ではなく、ただ聞いて共感してほしいということ。だから「ちゃんと聞いてくれない」と怒り出す。逆に女の遠回しな話し方は、女同士なら親密さの合図になりますが、ストレートを好む男には通じず、「〜みたいな感じ」を文字どおり受け取って反論してしまう。
いわゆる「女の勘」も、この知覚差から説明されます。女は声の調子や表情といった非言語のサインを読み取る能力が高く、レーダー探知機のように相手の本心を察知する。
男が嘘をついても、言葉と態度の食い違いを一瞬で見抜かれてしまうのは、超能力ではなく観察力の差というわけです。
なぜ女は地図を回し、男は道を聞かないのか
タイトル後半「地図が読めない女」は、空間能力の話です。
男は狩猟者として、標的の動きや距離、方向を立体的にとらえる空間能力を発達させました。だから頭の中で地図を回転させられ、北向きのまま読んでも自分の進行方向へ変換できる。
女はこの能力があまり発達しなかったため、地図を実際に進む向きへ回さないと読みにくく、方角より目印で言われたほうが頭に入ります。「北へ進んで」より「マクドナルドを過ぎて左」のほうがわかる、というわけです。
数字はややユーモラスに提示されます。空間IQの迷路パズルで得点の高い順に並べると92%が男だった。一発で縦列駐車ができる人の割合も、ある英国の調査では男性71%に対し女性23%。著者はこれを「幸福な生活のためには、女に地図を読ませてはいけない」と冗談まじりに言い切ります。
ただし、ここで著者の誠実さを評価しておきたい。これらはあくまで平均像であり、個人差が性差を簡単に上回ることを、著者は繰り返し断っています。女性初のヨット単独無寄港世界一周を成し遂げたケイ・コッティーは、市街図を読むのは苦手でも、計器と直感で世界を一周しました。
能力の性差を、特定の職業から女性を締め出す口実にしてはいけない——本書のユーモアが差別へ滑り落ちないのは、この留保があるからです。読む側も、統計の傾向と目の前の個人を混同しない節度が要ります。
ストレスが来たとき、二人は正反対に動く
すれ違いが決定的になるのは、ストレス場面です。
重圧を感じたとき、男は脳の感情をつかさどる部分との連絡を断ち、殻に閉じこもって一人で問題を解こうとします。ロダンの「考える人」のように黙り込み、テレビのチャンネルを次々変えたり新聞に没頭したりするのも、問題をいったん脇に置いて頭の中で処理するためです。
女は正反対で、たくさん話すことで気持ちを落ち着けます。
だから悲劇が起きる。黙り込む男を見て女は「愛されていない」と不安になり、追いかけて話を聞き出そうとする。男は「一人にしてほしい」のに干渉される。著者の言葉を借りれば、こうです。
男があとを追いかけても、蹴りおとされるのが落ち
正解は、お茶をそっと置いて、距離を取ること。この一節は本書のなかでも特に効きます。
なお本書には、性欲の立ち上がり方の違い(男は電子レンジのように急に熱くなり、女はオーブンのようにゆっくり温まる)や、自分の脳が男寄りか女寄りかを測る「男脳・女脳テスト」も収められています。肉体は男でも女寄りの脳を持つ人が15〜20%いるとされ、性別という箱だけでなく、個人の傾向として読み替えられる枠組みになっている点も見落とせません。
今日から変えられる、3つの翻訳
本書の知識は、関係を変える具体的な行動に落とせます。著者の提案から3つを引いておきます。
1. 相手への「同一視」をやめる。 「自分がしてほしいことを、相手も望んでいる」という思い込みを捨てる。男は問題解決を、女は共感を求めている。出発点が違うと知るだけで、見方が変わります。
2. 悩みを聞くときは、解決策を出さない。 パートナーが悩みを話し始めたら、アドバイスをぐっとこらえ、相槌を打ちながら聞く。話す側は先に「解決策はいらないから、ただ聞いて」と伝えておくと、相手も安心して聞き役に回れます。
3. 頼み事は「してくれる?」で伝える。 「ゴミ出しできる?」だと男の脳は能力の確認と受け取って終わってしまう。「ゴミ出ししてくれる?」と約束の形にする。たったこれだけで動き方が変わります。
おわりに
本書が言っているのは、突き詰めれば一つです。男と女はもともと作りが違う。それを認めず勝手な期待を押しつければ、関係は暗礁に乗り上げる。
逆に言えば、相手の不可解な言動に出くわしたとき、「悪意」でも「愛情不足」でもなく「脳の作りが違うだけ」と一度立ち止まれれば、怒りの多くは消えていきます。
すべてを脳のせいにする決定論には注意が要るものの、いったん相手を別の生き物として眺め直す視点は、確かに関係をほどく力を持っています。冷蔵庫のバターが見つからないパートナーに、次はどんな言葉をかけますか。
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『スマホ脳』アンデシュ・ハンセン 本書と同じく「現代人の脳はいまだに狩猟採集時代のまま」という進化のミスマッチを軸にした一冊。男女差ではなく、人類共通の脳の古さからスマホ依存を読み解きます。
『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』橘玲 「生まれか育ちか」をめぐる議論で、本書と同じく生物学的な現実を直視する視点。能力や性質が遺伝に左右されるという前提から、どう生きるかを考えます。
『わかりあえないことから』平田オリザ 本書が脳の差から男女のすれ違いを説くのに対し、こちらは「わかりあえる」という前提そのものを疑う立場。違いを越える対話のヒントが補完になります。
