明日は大事なプレゼンがあります。前夜になって資料を見直しながら、「落ち着け」と自分に言い聞かせます。それでも手は震え、頭の中はますます白くなっていく――そんな夜を過ごしたことがある人は多いはずです。
精神科医の樺沢紫苑さんによる『いい緊張は能力を2倍にする』は、この「落ち着け」という呪文そのものを疑うところから始まる一冊です。緊張を消すべき敵として扱うのではなく、脳内物質と自律神経の仕組みを知ったうえで使いこなす道具として捉え直します。
著者自身、もともと人前で話すのが得意ではなく、精神科医としての知識を自分に試しながら今のスタイルにたどり着いたといいます。33個の対処法が並びますが、根っこにある考え方はシンプルです。

緊張は敵ではなく、量を調整する対象である
緊張は消すものではなく、ちょうどよい量に調整すれば、能力を最大限に引き出すエネルギーになります。これが本書の主張のすべてです。土台にあるのは心理学のヤークス・ドッドソンの法則で、著者はこれを「緊張の逆U字理論」と呼び直しています。
緊張の強さと成果の関係をグラフにすると、山なりの逆U字を描きます。頂上にあたる適性緊張の状態では、集中力と判断力が同時に高まります。逆に緊張が強すぎれば頭が真っ白になって崩れ、弱すぎれば注意が散って意欲そのものが湧きません。
著者のセミナーでこの理論を知っていた参加者はわずか5%だったといいます。多くの人が緊張をゼロに近づけようとして、かえって山の左側へ滑り落ちているというのが著者の見立てです。
自分がいま山のどちら側にいるかを掴む手がかりとして、本書は緊張を速度にたとえる方法を勧めています。
- 時速90キロを超えたら:過緊張
- 時速50キロ前後:ちょうどよい頂上
- 時速20キロ以下:気持ちが緩みすぎている合図
このように、体感を数値に置き換えます。
漠然とした不安を「今は何キロくらいか」と自問するだけでも、次にアクセルとブレーキのどちらを踏むべきかが見えてきます。
受け止め方を変えるだけで結果が変わることを示す実験も紹介されます。ある大学の研究者が学生を2グループに分け、一方にだけ「緊張は成績を高める」と事前に伝えて試験をさせたところ、説明を受けたグループのほうが平均点で60点以上も上回りました。
緊張という現象そのものよりも、その意味づけのほうが成果を左右しています。
大手飲料メーカーの研究部門が成人男女を対象に行った調査でも、「緊張しやすい」と答えた人は合わせて8割を超えていたといいます。緊張しやすさは一部の人だけの弱点ではなく、多くの働く人が抱えている反応だと数字が裏づけています。
大勢の前で話す場面のほか、初対面の相手と会うときや、新しい職場に入るときも緊張の起きやすい場面として挙げられています。
過緊張には3つの生理的な原因がある
過緊張は、心の弱さではなく、3つの生理的な要因で起きます。「心が弱いから緊張する」という精神論を、著者はいったん脇に置きます。緊張しすぎる状態を、交感神経の働きすぎ、セロトニンの不足、ノルアドレナリンの出すぎという3つの生理的な要因に分解し、それぞれに対応する手を打っていく構成です。
交感神経が優位なままだと、手の震えや冷や汗が出ます。これを鎮めるために本書がまず勧めるのが、5秒かけて鼻から吸い、10秒かけて口から吐き、最後の5秒で肺の空気を完全に出し切る呼吸法です。
ポイントは息を吸う瞬間ではなく、吐ききった瞬間にリラックスを担う神経のスイッチが入ることで、浅く速い呼吸はむしろ逆効果になるといいます。人前で早口になりがちな人には、話す速度そのものを落とし、節目で間を取りながら呼吸を挟むことも勧められています。
セロトニンは心を落ち着かせる働きを持ち、朝の光を浴びる、姿勢を正して座る、一定のリズムを刻む運動をするといった日々の習慣で底上げできるとされます。
ガムを20分噛み続けるだけでも血中の量が増えるという、意外に手軽な方法も紹介されています。ノルアドレナリンは危機に備える物質で、量が適切なら集中力を引き上げますが、出すぎると頭が真っ白になる引き金になります。
この物質の暴走を抑える鍵として本書が重視するのが、次に触れる準備の質です。
本番前日から当日までにできること
本番前に、扁桃体が判断の元にしている過去の経験のデータベースを書き換えてしまえばいいのです。危険を察知する脳の部位である扁桃体は、過去の経験というデータベースをもとに、一瞬で「安全か危険か」を判断すると本書は説明します。基本になるのは、時間を測りながら立って話す、本番さながらの予行演習です。
「タイムマシンで過去に戻ったとしても、これ以上やることはない」
そう言い切れる水準まで準備を重ねることを、著者は一つの目安として示します。あるフィギュアスケート選手が大会本番に向かう機内で、演技の成功シーンを繰り返し思い描いて本番の成功率を高めたというエピソードも、同じ理屈で語られています。
睡眠不足も見過ごせません。眠りが足りないと扁桃体が過敏になり、わずかな重圧にも大げさに反応しやすくなるという研究も紹介されます。本番前日の徹夜は、準備のつもりで緊張の火に油を注いでいるようなものだという一節は、資料の修正に追われがちな読者に刺さるはずです。
脳の作業机にあたる部分は、同時に抱え込める心配ごとが3つ前後しかないとも本書は説きます。だから本番直前は、決まった動作を何個も連ねて、その席を不安に譲らないようにします。
ラグビー選手がキックの前に指を合わせるような一連の型は、見た目の儀式ではなく、頭の中を埋めるための実用的な仕掛けだという説明には納得感があります。
終わったあとは、良かった点、悪かった点、次への改善策を順に書き出す振り返り方も勧められていて、失敗の記憶ばかりが積み上がるのを防ぐ役目を果たします。
「落ち着け」ではなく「ワクワクする」と言う
本番の直前は、「落ち着け」ではなく「ワクワクしてきた」と声に出しましょう。冒頭の問いに戻ります。「落ち着け」がなぜ逆効果なのか。脳は否定の言葉をうまく処理できず、「失敗しないぞ」と念じるほど「失敗」のイメージだけが強く残ってしまうからだと本書は説明します。
代わりに勧められるのが、肯定的な一言を声に出すことです。ある実験では、緊張する課題の直前に「ワクワクする」と発声したグループは、「落ち着いて」と言ったグループより数学の正答率もカラオケの採点も高かったといいます。高ぶりそのものを消そうとするより、その意味づけを変えるほうが早いのです。
一流の選手たちの言葉も、同じ方向を向いています。
「毎試合緊張するし、逆に緊張しないとまずい」
あるサッカー選手が語ったというこの一言は、緊張をなくすことではなく、うまく使うことを言い当てています。本書はさらに、意識の向け先を自分から相手へ移すことも勧めます。
よく見られたいという意識が過緊張を招くのに対し、聞き手の役に立ちたいという意識に切り替えると、不思議と肩の力が抜けるといいます。支援者への感謝を口にしながら長距離を走りきったランナーの例のように、感謝の気持ちが不安を打ち消す働きも紹介されています。
完璧を目指す構えを手放し、今できる最善を尽くせばいいと割り切る姿勢も、繰り返し登場する主題です。
場面ごとの応用も具体的です。質疑応答が怖いなら、想定される質問をできるだけ多く書き出しておけば、本番でカバーできる範囲は着実に広がります。1対1の面談で会話が途切れるのが不安なら、話題をあらかじめメモしておきます。
異動で新しい職場に入る日のように、気合いが空回りしてかえって萎縮してしまう場面もあります。逆に気分が乗らず声に張りが出ない日には、あえて大きな声を出して自分を鼓舞するという逆方向の使い方も紹介されています。
本書の限界
本書は、日常生活に支障が出るほどの重いあがり症については、専門医への相談を促す程度にとどまります。再現しやすい方法が並ぶ一方で、届かない範囲もあります。セルフケアと医療機関を頼る境目までは踏み込みません。呼吸やルーティンを試しても改善しないと感じたら、本書の外に助けを求める判断も要ります。
また、自分から役割を買って出るという能動的な姿勢の勧めは、職場の力関係によっては本人の意思だけでは選びにくい場面もあります。すべての緊張が、当人の工夫だけでほどけるわけではありません。
それでも、33個の対処法をすべて覚える必要はありません。呼吸法とワクワクする一言、この2つだけでも試す価値があります。どちらも道具や準備を必要とせず、次に胸が高鳴った瞬間から使い始められます。緊張を消そうとして消耗してきた人ほど、この小さな置き換えの効き目を実感しやすいはずです。
合わせて読みたい
『集中力がすべてを解決する』樺沢紫苑 同じ著者が、緊張の逆U字理論の頂上にあたる「ゾーン」を、集中力の側から掘り下げた一冊。脳内物質の働きを日々の仕事にどう応用するかまで、話を広げて読めます。
『カーネギー話し方入門』D・カーネギー 人前で話す恐怖に、準備と場数で向き合ってきた古典。本書が勧める予行演習の考え方と重なる教えが、話し方の実技としてより丁寧に整理されています。
『ゾーンに入る』ダニエル・ゴールマン 最高の集中状態を感情の扱い方から読み解く一冊。本書が脳内物質で説明した仕組みを、心理学の別の角度から確かめられます。
