頬に手がくっついて、離れない。
ある化粧水を使う一人の女性が、笑いながらそう話しました。普通に聞けば「ベタベタする」という、クレームすれすれの感想です。
でもロート製薬はここから「もちもち肌になる化粧水」という訴求を生み出します。年間20億円ほどだった「肌ラボ」は160億円規模へ、販売本数では日本一の化粧水に化けました。
きっかけは1000人のアンケートではなく、たった一人へのインタビュー。『たった一人の分析から事業は成長する 実践 顧客起点マーケティング』は、この「N=1」を起点に事業を成長させる方法論を体系化した本です。
著者の西口一希さんは、P&G、ロート製薬、ロクシタン、スマートニュースの最前線で実績を上げてきたマーケター。本書を貫くのは「平均的・最大公約数的なマクロ分析からは、人の心を動かすアイデアは生まれない」という一点です。
こんな人におすすめ
調査データは手元にあるのに、企画が決まらない。そんな人にこそ効く本です。
- アンケートやアクセス解析を眺めても「次の一手」が出てこない人
- 「ターゲットを絞るとニッチになる」と言われ、企画を丸めた経験がある人
- ブランディング投資の費用対効果を聞かれて、言葉に詰まったことがある人
マーケター以外でも、商品企画や営業など「顧客に価値を届ける」仕事ならそのまま使えます。BtoBでも顧客リストと取引データでピラミッドを作れる、と本書は明言しています。
マス思考という病
著者がまず斬り込むのは「マス思考」です。
大規模調査の結果は、しょせん平均値と最大公約数。そこから出てくるのは、誰の心も強く捉えない無難な企画です。
会議室で複数人がこもって作った「平均的なペルソナ」も同罪だと、本書は容赦なく断じます。
「複数人で会議室にこもったり、合宿をしたりして、『当社のお客様はこんな方……』と作ったものの、実態としてそれは多種多様な方々の組み合わせであり、実際には存在しないカスタマージャーニーです。」
代わりに提案するのが、実在するたった一人の顧客を徹底的に深掘りする「N1分析」。身近な一人に確実に喜ばれるプレゼントを真剣に選ぶように企画を立てる、という比喩が象徴的でした。
「一人に絞るとニッチになる」という反論には、こう答えます。徹底的に絞り込むからこそ独自性と便益が研ぎ澄まされ、結果的にマスにも響く。絞り込まないから、鳴かず飛ばずに終わる。
アイデア=独自性×便益
本書は「アイデア」という曖昧な言葉を、2つの軸で定義し直します。
軸の1つは、他にはない特有の個性である「独自性」。見たことも聞いたこともない、五感で感知したことのない個性です。もう1つは、顧客にとって都合がよく利益がある「便益」。
この2軸で、世の中の商品は4つに分かれます。
独自性だけ → ギミック 目は引くけれど、買う理由がない。一過性の注目で終わる仕掛けです。
便益だけ → コモディティ 役には立つけれど、他でも代替できる。価格競争に巻き込まれます。
両方なし → 資源破壊 投資するだけ無駄、という手厳しい分類です。
両方ある → アイデア 人の購買行動を動かすのは、これだけ。
ロート製薬の「デ・オウ」が好例です。銭湯で「ニオイを気にして体をゴシゴシ洗う人」を観察し、「ニオイをゼロにする」という独自性と便益で新ブランドを投入。発売から半年で、寡占状態だった男性用全身洗浄料市場のNo.1を取りました。
さらにアイデアには主従があります。主は商品・サービスそのものが持つ「プロダクトアイデア」、従はそれを伝える広告などの「コミュニケーションアイデア」。商品自体に独自の便益がなければ、どんなに広告が話題になっても売上は続きません。
iPhoneは「電話をかけられるiPod」という強烈なプロダクトアイデアがあったから、広告はストレートで良かった。ソフトバンクは「白戸家」という強いコミュニケーションアイデアに、iPhone独占販売というプロダクトアイデアを重ねたから飛躍した。事例の並べ方に説得力があります。
顧客ピラミッド――3つの質問で市場をまるごと可視化する
N1のミクロな深掘りと対になるのが、マクロのフレームワークです。
必要な質問はたった3つ。「そのブランドを知っているか」「買ったことがあるか」「どれくらいの頻度で買っているか」。これだけで、市場の全員をロイヤル顧客、一般顧客、離反顧客、認知・未購買顧客、未認知顧客の5層に分類できます。
安価なネット調査で、競合ブランドのピラミッドまで作れるのがミソです。
ここに売上・利益データを重ねると、構造が見えてきます。多くのビジネスでは上位10〜30%の顧客が売上や利益の70〜90%を生む。ロクシタンでは、上位約16%の購買者が売上の42%、利益の100%を担っていました。
そして、こんな事実が示されます。
「世の中の商品やサービスのほとんどが、そのターゲット顧客全体で50%の認知も獲得できていないと思われます。」
著者が関わったブランドでも、認知50%超えは3割程度。つまりほとんどの商品にとって、未認知層と未購買層こそが最大の成長余地です。
5つの層それぞれからN1を抽出し、「いつ、何をきっかけに知ったのか、買ったのか、好きになったのか」を時系列で聞いていく。行動データだけでは見えない心理のきっかけを掴むのが、N1分析の目的です。
自社では一般顧客なのに競合ではロイヤル、という重なりを見る「オーバーラップ分析」も実戦的でした。ロクシタンはこの分析プロセスから「誰にでも喜ばれるギフト」という機会を見つけ、2年間で過去最高の売上と利益を達成しています。
アイデアは「コンセプトテスト」で検証してから投資する
N1から見つけたアイデアは、あくまで一人から得た仮説です。
そのまま実行するのは危険。独自性と便益を価格・商品情報と組み合わせた「コンセプト」の文章に変換し、定量調査で各セグメントの購買意向がどれだけ上がるかを検証します。ここで初めて、再現性と拡張性が確認できます。
検証と理解を怠るとどうなるか。ロート製薬は浴室で使うボディオイルを開発し、テスト評価も好評だったのに、終売に追い込まれました。
オイルで床が滑る。タオルが汚れるのが嫌。そんな生活場面のリアルを、N1レベルで理解しないまま投入したからです。
9セグマップ――聖域だったブランディングを数字にする
本書でいちばん野心的なのが、ここです。
顧客ピラミッドの上位4層を「次回もこのブランドを買いたいか」というブランド選好の有無でさらに2分割。未認知と合わせて9セグメントの地図を作ります。
これで何が変わるか。顧客が左から右へ動けば販売促進の成果、下から上へ動けばブランディングの成果。「イメージ向上」という曖昧な言葉で聖域化していたブランディング投資を、販促と同じ土俵で検証できるようになります。
実際、「革新的」「おしゃれ」といったイメージスコアと、次回の購買意向には相関がないことが多い、と著者は指摘します。ここで驚いた人は多いはずです。
怖いのは「消極ロイヤル顧客」の存在でした。
「自社ブランドを大量に買ってくれているロイヤル顧客の心は、必ずしも“次回もロイヤル”ではないのです。」
毎週買ってくれる常連が、実は「他に選択肢がないから」買っているだけかもしれない。割引やポイントなどの貨幣的価値で繋ぎ止めた顧客は、競合がより安くした瞬間に消えます。それどころか、もともとブランドが好きだった顧客まで「お得感」目当てに変えてしまう。
自動車業界の調査では、トヨタ所有者のブランド選好は50.7%、ホンダの離反率は77.2%。普段は見えない数字が、9セグマップだと丸裸になります。
スマートニュースを1年でNo.1にした実例
理論だけならよくある本です。本書が異様なのは、著者自身がスマートニュースで実行した数字を、そのまま公開していること。
2017年2月の調査で、スマートニュースの認知率は29.0%、競合Aは35.8%。負けています。でも毎日使うロイヤル顧客は4.9%対3.3%で、競合より48%多い。
つまり「知られてさえいれば、使い続けてもらえるプロダクト」だった。しかも未認知層は71.0%で、現在の顧客層9.2%の7.72倍という巨大な伸びしろです。
N1分析からは「英語ニュースチャンネル」や「クーポンチャンネル」というプロダクトアイデアが生まれます。コンセプトテストで検証し、テレビCMで一気に集中投資。
結果、約1年でアプリランキング100位圏外からNo.1へ。2019年1月には世界累計4000万ダウンロード、月間使用者数1000万人を突破しました。
CMテストの逸話が面白いです。お笑い芸人の千鳥を起用し、「クーポン」を「クーペン」と読み違える笑えるCMを含む6種類をテスト放映。SNSの反響はクーペン篇が一番だったのに、ダウンロードに繋がったのは、便益をシンプルに伝える「呼び名篇」でした。
面白い広告より、プロダクトアイデアをまっすぐ伝える広告。先ほどの主従関係が、数字で証明された瞬間です。
13カ月で顧客数は87%増、ブランド選好者は71%増。中高年男性に偏っていた7:3の男女比も、ほぼ拮抗するまで変わりました。
スマホが作った「パラレルワールド」と、静かに進む侵食
最終章は、デジタル時代への警鐘です。
日本のスマホ保有率は、2010年の9.7%から2017年には75.1%へ。著者はこの変化を、旧来の物理的な世界とスマホ経由の世界が並走する「パラレルワールド」と呼びます。
怖いのは、異業種からの破壊的イノベーションの侵食が、売上やシェアといったマクロ指標では見えないこと。登場時はニッチで認知も低いから、気づいたときには手遅れになりかねません。兆しは、離反顧客や消極ロイヤル顧客のN1分析にだけ現れます。
行き着く先は、生活のあらゆる摩擦が消える「ゼロフリクションワールド」。レジに並ばないAmazon Goや、顧客が注文する前に商品を届ける仕組みの特許が、その前触れとして紹介されます。
デジタルベンチャーが使う「AARRRモデル」のような行動データの最適化も、認知とブランド選好という土台があってこそ。実際、ブランド選好のない層の獲得コストは、選好のある層の200〜300%に跳ね上がるというデータも示されます。
ABテストやCPA改善への部分最適に溺れると、ビジネスは縮小均衡に陥る。デジタルマーケティングの現場には、耳の痛い指摘だと思います。
明日からの3ステップ
本書のアクションプランは明快です。
1. 3つの質問で顧客ピラミッドを作る 自社と主要競合について「認知・購買経験・購買頻度」を問う簡易調査を実施する。人口推計と掛け合わせ、5セグメントの人数と売上・利益の構造を可視化します。
2. ロイヤル顧客と離反顧客にN1インタビューをする 各セグメントから実在する顧客を数名選び、1対1で話を聞く。「いつ、何をきっかけに買ったか・離れたか」を時系列のジャーニーとして描き、心が動いた瞬間を特定します。
3. アイデアをコンセプトテストにかけ、9セグマップでPDCAを回す 見つけたアイデアを「独自性+便益+価格・商品情報」の文章にして定量調査へ。投資後は定期的に9セグマップを更新し、顧客が右と上にどう動いたかを追います。
順番が大事です。いきなりインタビューに走らず、まずピラミッドで全体像を作る。ミクロとマクロの往復が、この方法論の肝です。
おわりに
読み終えて残るのは、フレームワークの精巧さ以上に、著者の姿勢でした。
「どれだけ世界が進化しデジタル化が進んでも、人の行動を左右するのはその人の心の動きです。データと論理だけでは顧客の心は理解できません。」
P&Gが2000年3月の株価30%超の暴落から立ち直るとき、合言葉は「Consumer is Boss」でした。顧客こそがボス。データが増えるほど、実在する一人の顧客に会いに行く価値はむしろ上がっていきます。
あなたのサービスを使ってくれている人に、明日、一人だけ話を聞いてみる。本書の方法論は、その小さな一歩からそのまま始められます。
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『顧客起点の経営』西口一希 同じ著者が、本書のN1分析と9セグマップを経営全体の意思決定にまで広げた一冊です。マーケティング部門を超えて組織を動かしたい人は、セットで読むと視界が繋がります。
『ジョブ理論』クレイトン・クリステンセン N1インタビューで「なぜ買ったのか」を掘り下げるとき、顧客が片付けたい「ジョブ」という補助線が効きます。本書の参考文献にも挙げられた、深層心理を捉えるための理論編です。
『“未”顧客理解』芹澤連 本書が最大の伸びしろと位置づける「未認知・未購買顧客」を、どう理解しどう動かすかに特化した一冊です。顧客ピラミッドの下半分を攻めるときの実践書として、本書を補完してくれます。