「データは揃っている。分析もした。なのに、何も決まらない」。
会議室でこの感覚を味わったことがある人は、多いはずです。グラフは美しい。数字は正確。でも、お客さんが次に何を欲しがるのかが、まるで見えてこない。
本書はその正体を、ひとことで言い当てます。文脈を削ぎ落とした数字だけを見ているから、人間が見えなくなっているのだ、と。
著者のクリスチャン・マスビアウ氏は、ReDアソシエイツという人文科学ベースのコンサルティング会社の創業者です。哲学や文化人類学の知をビジネスの現場に持ち込み、「センスメイキング(意味づけ)」という人間特有の力を取り戻そうと訴えます。AIやビッグデータがすべてを解決すると言われた2010年代に、真っ向から異を唱えた一冊です。
この本が立てている「対立軸」
本書を貫く背骨は、たったひとつの対比です。「薄いデータ」と「厚いデータ」。
薄いデータとは、クリック数やGPSのログ、購買履歴のように、文脈を削ぎ落として数値化した記録のこと。ウィンクを「1ミリ秒の目の痙攣」と定義してしまうようなものだ、と著者は言います。便利だけれど、「本気じゃないよ」という合図だったかもしれない、という意味が抜け落ちる。
これに対して「厚いデータ」は、行動の背景にある感情やムード、文化、暮らしの文脈ごと捉えたデータを指します。
厚いデータは、単なる事実の羅列ではなく、こうした事実の「文脈」を捉えている。
(クリスチャン・マスビアウ『センスメイキング』より)
この対比から、著者は人文科学に根ざして文脈を読み解く力を「センスメイキング」と呼び、そのルーツをアリストテレスの「フロネシス(実践知)」にまでさかのぼります。哲学を象牙の塔から引きずり出し、投資や新製品開発の武器に変えていく——その手つきこそ、本書を読む醍醐味です。
ここで個人的に面白いと思ったのは、これが単なる「数字否定論」ではない点です。著者は薄いデータと厚いデータを対立させるのではなく、掛け合わせるものとして扱います。だからこそ、データ全盛の時代にあってもなお説得力を失っていません。
「なぜ」を、数字は教えてくれない
著者はまず、データ万能論の足元を崩しにかかります。
象徴的なのが、検索ビッグデータからインフルエンザの流行を予測しようとしたグーグルの試みです。因果関係を無視したアルゴリズムは、流行とは無関係な検索語にまで反応してしまう。結果がどれほど外れ続けたか——その具体的な数字は、本書で確かめてみてください。読むと「なるほど、相関と因果はこう違うのか」と腑に落ちるはずです。
このほかにも、巨費を投じたアンケートで「患者の何割が服薬を守らない」という数字は手に入ったのに、では会社として何をすればいいのか誰も見出せなかった医療技術企業の話や、帳簿上の良好な数字を信じた末に破綻した金融機関の話が続きます。いずれも、データを細かく刻むほど現実から遠ざかる、という逆説の実例です。
データは「何が起きたか」は示す。でも「なぜそうするのか」「どうすれば変わるのか」は語らない。当たり前のようでいて、現場でつい忘れがちな線引きを、本書はしつこく突きつけてきます。
五原則のうち、私が一番効いたもの
本書の骨格は、センスメイキングの五原則です。「個人ではなく文化を」「動物園ではなくサバンナを」「GPSではなく北極星を」——いずれも、機械的なやり方から人間的な見方への転換を示しています。五つそろえて眺めると、「人を点ではなく、つながりの中で、現場で、関心を持って見る」という一本の線でつながっていることが分かります。
ここでは全部を解説しません。代わりに、私がもっとも刺さった一つだけを挙げます。「動物園ではなくサバンナを」です。
人間を理解するには、アンケートや実験室という切り取られた環境(動物園)ではなく、実際の生活空間(サバンナ)で観察すべきだ、という原則。著者はこれを、ボウルの餌を食べる動物園のライオンと、サバンナで狩りをするライオンの違いにたとえます。比喩そのものが鮮やかで、一度読むと忘れられません。
残る四つがどう絡み合い、どんな哲学者(ハイデガーやフッサール)の発想に支えられているかは、本書で順にたどってほしいところです。一つずつが、地味に効いてきます。
投資と現場——「厚いデータ」が勝負を分けた瞬間
本書がただの理念論で終わらないのは、生々しい実例で主張を裏づけていくからです。
意外なのは、もっとも数字がものを言うはずの投資の世界に、厚いデータの好例が登場すること。1992年の英国ポンド空売りで巨利を上げたジョージ・ソロスのチームが分析したのは、マクロ経済データだけではありませんでした。彼らが何を読んだのか、ソロスの右腕がヘルシンキの街で何を確信したのか——その中身は伏せておきます。「データの権化のような世界で、人はこんなものを見ていたのか」と驚けるかどうかは、本書を開いてのお楽しみです。
もう一つ、北欧の生命保険会社の事例も印象的です。中高年顧客の流出に悩む同社のために、著者のチームは会議室を出て、高齢の顧客とともに時間を過ごしました。そこで見えたのは、「老い」が顧客にとって実存的な危機だという事実。会社が良かれと打っていた明るい営業が、まったく的を外していたわけです。
方針を転換した結果、解約率は劇的に下がりました。どれほど下がったのか——その数字を知ると、「現場に身を置くこと」の効きめが一気に体感できます。ぜひ本書で確かめてください。
どんな人に効くか
正直に言えば、本書は「明日すぐ使える定量分析の手順書」ではありません。説いているのは、数字の手前にある「人間の見方」を鍛え直す話。だから、即答できる正解を求める人には回りくどく感じられるかもしれません。
一方で、こんな人には強く効きます。ダッシュボードを眺めても次の一手が見えないリーダー。顧客アンケートを集計しても「なぜ」がわからないマーケター。デザイン思考やフレームワークを試したのに、出てくるアイデアが薄いと感じている企画担当者。
特にデザイン思考への批判は本書屈指の毒で、礼賛されがちな手法を著者は容赦なく斬ります。賛否はあれど、自分の仕事の前提を揺さぶられる読書体験になるはずです。
読み終えて残るのは、具体的なフレームワークではなく、数字の手前にいる「人間」を文脈ごと見ようとする姿勢でした。会議室のスプレッドシートと、お客さんが本当に暮らす場所。その間にある距離を、自分の足で埋めにいく覚悟と言ってもいい。
データの処理はアルゴリズムに任せればいい。でも、そこから「何が本当に重要か」という意味を取り出すのは、いまも人間の仕事です。むしろAIが進むほど、その役割は重くなる。次にダッシュボードの前で手が止まったら、もう一本グラフを増やす前に、本書のページをめくってみてほしい一冊です。
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『論点を研ぐ』則武譲二 本書が説く「GPSではなく北極星を」と同じく、データに答えを出させるのではなく、解くべき問いを自分で定義する力を扱った一冊です。厚いデータを集める前に「そもそも何を見極めるのか」を研ぎたい人に効きます。
『デザイン思考が世界を変える』ティム・ブラウン 本書がもっとも痛烈に批判した相手、デザイン思考の本家を読むと、議論が立体的になります。両方を並べて初めて、「観察と共感」をどこまで深めるべきかという論点の本当の輪郭が見えてきます。
データを集めるほど、人の心が見えなくなる まさに本書の問題意識をそのままタイトルにしたようなコラムです。薄いデータと厚いデータの話を、もっと身近な日常の場面で確かめたい人の入口になります。



