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『ツレがうつになりまして。』細川貂々|「ガンバレ」が、いちばん効く毒になる

健康・メンタル ✍ 細川貂々
約7分で読めます

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『ツレがうつになりまして。』
目次

ある朝、毎日きちんとお弁当を作っていた夫が、真顔で「死にたい……」とつぶやく。劇的な事件があったわけではありません。リストラで30人いた職場が5人に減り、その仕事量をひとりで背負った。きっかけは、ただそれだけです。

『ツレがうつになりまして。』は、イラストレーターの細川貂々さんが、夫(本書では「ツレ」と呼ばれます)のうつ病と過ごした約1年半を、妻の側から描いたコミックエッセイです。

重いテーマなのに、読むと不思議と肩の力が抜ける。それは著者が、うつ病を「特別な人に起きる悲劇」ではなく「真面目な現代人なら誰の身にも起きる、小さなつまずき」として描いているからです。

患者ではなく、隣で支える人の物語

うつ本は世にあふれています。そのなかで本書が際立つのは、視点の置き場所です。語り手は病気の本人ではなく、いちばん近くで支える家族、つまり妻なのです。

だから本書には、病気に振り回される側の戸惑いも、隠しきれない苛立ちも、正直に出てきます。「私もいろんなことがいっぺんに来た疲れが出てムカムカしていた」。

この一文に救われる人は多いはずです。看病する側は「優しくあらねば」と自分を縛りがちですが、本音のイライラを描いてくれる本があると、「ムカついていい」と許される。

支援者の罪悪感をほどく効能こそ、本書の隠れた価値だと編集部は受け取りました。

加えて、マンガという形式の敷居の低さも見逃せません。活字を読む気力すら奪われるのがうつの怖さですが、絵なら当事者でもページをめくれる。著者は不可解な症状を「宇宙カゼ」と名づけ、深刻になりすぎない距離を保ちます。重さと軽さの配合が、絶妙なのです。

ある朝、辞表を書くのに8時間かかった

物語は、ツレの発症から始まります。原因は過重労働でした。会社のリストラで人手は激減し、ツレは修理やサポート業務に加えて海外本社との英語交渉までこなす。朝の電車は乗車率200パーセント。逃げ場のない構造です。

体は心より先に悲鳴を上げました。診断の1カ月ほど前から眠れず、退職直前は毎日2時間ほどしか眠れない。食欲が消え、味がしなくなり、便秘や原因不明の背中の痛みが続く。大好きだった食事を、おいしいと感じられなくなる。

ここを読み飛ばしてはいけません。これらは「ただの体調不良」に見えて、すべてうつ病のサインでした。うつ病は心の弱さではなく、ストレスで脳内の神経伝達物質のはたらきが乱れて起こる病気です。

真面目な人ほど「気合いが足りないだけだ」と自分を疑い、限界まで走り続けてしまう。象徴的なのが、辞表を書くのに8時間かかった場面です。突き返された辞表を手書きで清書しようとすると、字が傾き、間違える。

簡単なはずの作業ができなくなっていた。これが病気の正体だと、本書は静かに突きつけます。

「ガンバレ」が、いちばん効く毒になる

うつの人に「がんばれ」と言ってはいけない。よく聞く話ですが、本書はその理由を腑に落ちる形で説明します。

うつの人は、現状を維持するだけで精一杯。いわば敗戦目前で最後の気力を振り絞っている状態です。そこへ「がんばれ」とさらなる努力を求められると、目の前が暗くなり、かえって戦意を失う。励ましのつもりの一言が、崖から突き落とす最後の一押しになるのです。

著者はここで一歩踏み込みます。「ガンバレ」という単語さえ避ければいい、という理解は浅い、と。実際、その言葉を使わなくても同じ文脈で迫ってくる人がいてつらかった、と書きます。

問題は単語ではなく文脈です。あいさつ代わりの「がんばってね」なら害は小さい。本当に危ないのは「これとあれが君のやるべきこと、さあがんばれ」と、課題を増やしながら背中を押すこと。

言葉づらだけ取り繕っても、態度で急かしていたら同じだ——この指摘は、職場や家庭の何気ない励ましをそのまま射抜きます。

一方で妻は当初、このルールを「ガンバレって言わなければいいだけか。カンタンじゃん」と軽く受け止めます。その肩の力の抜き方が、支える側が気負いすぎないお手本になっている。深刻な顔で看病に臨むより、のんきな伴走者でいるほうが結果的に続く、という逆説です。

どん底では、嵐が過ぎるのを待つ

症状が最も重い時期は、本人も家族も、ただ嵐が過ぎるのを待つしかありません。

ツレは「自分はゴミより価値のない人間だ」と責め、何の役にも立っていないと感じる「申しわけない病」に沈みます。突然「自殺したい」と言い出し、約15キロの足ふみ器を投げつけるなど、感情の制御も難しくなる。

この嵐をしのぐために著者が編み出した知恵が「宇宙カゼ」です。理解できない突飛な言動を真正面から全部受け止めると、支える側が共倒れする。だから「これは宇宙カゼのせい」と切り離し、本人の病んだ言葉と本人そのものを分けて考える。

妻が「私だけでものんきにしなきゃ」と決め、ときに一人旅で息抜きをする姿は、支援者のセルフケアの教科書です。支える人が倒れれば、支援そのものが消えてしまうのですから。

もうひとつ重要なのが「ダラダラする練習」という逆説です。休むのは簡単だと思われがちですが、几帳面な人は「世間に申しわけない」と罪悪感に苦しみ、休むことができない。

だから家族が、ゴロゴロすること、楽しいことだけすることを、意識して許し、教えてあげる必要がある。休息は才能ではなく、訓練が要る技術なのです。

回復は一直線ではなく、振り子のように揺れる

薬が効きはじめても、回復はまっすぐ進みません。主治医はこう告げます。

一直線によくなるのではなく、振り子がゆれるようによくなったり悪くなったりしながら回復するので、油断しないように

本書はこれを「ゆり戻し」と呼びます。昨日まで元気だったのに翌日は起き上がれない。良くなった経験があるからこそ、落ちたときの絶望が深い。数字も覚悟を迫ります。

治療には最低3〜6カ月、完全に戻ったと感じるまで平均1年ほど、長ければ7年や10年かかることもある。半年程度で治ったように見える例は、再発の危険もあるそうです。

焦らせないことが、最良の薬になります。

回復期には新しい苦しみも生まれます。ツレは元気だった頃の自分と動けない今の自分を比べて落ち込み、40歳の誕生日には「家なし・子なし・無職、しかも病気」という現実に直面する。回復とは、過去の自分との折り合いをつける作業でもあるのだと、本書は教えます。

家事という「究極の作業療法」、ただし

回復を後押しした意外な方法が、家事でした。料理のように段取りを組み、味付けを想像しながら手を動かす作業は、鈍った脳と感覚のリハビリになる。本書はこれを「究極の作業療法」と呼びます。

ただし落とし穴があります。手順が組み立てられず味覚も鈍っているため、料理に失敗して激しく落ち込むこともある。良かれと思った家事が、自信を折る凶器にもなりうる。

だから妻はこう声をかけます。「私なんか家事全然できなかったでしょ、ツレはちゃんとできてエライよ」。失った能力を嘆くのではなく、今できている事実に光を当てる。

罪悪感に沈む人の自尊心を、こうやって下から支えるのです。

食事の中身も工夫します。気分に関わるセロトニンは、トリプトファンというアミノ酸を原料に作られる。だから卵の白身、大豆製品、バナナ、ホットミルクなどを意識的に食卓に並べる。

ちなみに回復のサインは思いがけず訪れました。ツレがふと、まわりが冬になっていることに気づき、空気の冷たさや日差しのやわらかさに感動したとき。

視野が広がり、季節を感じ取れた——それが人間らしさを取り戻した合図でした。

治すのではなく、抱えて生きると決める

終盤、ツレはフリーランス初の確定申告という気の重い大仕事をやり遂げ、少しずつ自信を取り戻します。そしてある境地にたどり着く。「今、調子がよくてもまた悪くなるときが来るんだよ。

コレはそーゆー病気だ」。完全に元通りになるという期待を手放し、病気を抱えたまま生きると受け入れる。「カンペキでなくちゃダメだって思って病気を引き起こしたんだから」と、完璧主義そのものを下ろしていく。

その受容とともに、表情が穏やかになっていきます。

著者の結論は胸を打ちます。うつになったのはツレの人生で避けて通れなかったことのように思う、病気になって初めて自分の弱さに気づけたのだから無駄ではない、と。

そして妻自身も、マイナス思考から前向きへ変わり、「私にとってツレの病気は財産になったのです」とまで書く。病気の美化ではありません。お互いの弱さを受け入れられるようになった夫婦の、正直な実感です。

おわりに——今日からできる3つのこと

本書から、すぐ実践できることを3つ。

ひとつ、落ち込む相手に「がんばれ」を封印し、課題を増やさない。「今は何もしなくていいよ」に置き換え、態度で急かしていないかも点検する。ふたつ、不眠・食欲不振・趣味への興味喪失が重なったら、自己判断せず心療内科を予約する。

みっつ、支える側は看病から物理的に離れる時間を予定に組み込む。相手の言動を「宇宙カゼのせい」と切り離し、共倒れを防ぐ。

この本は、トンネルの中を焦らず、のんびり、ありのままで歩くためのガイドブックです。ツレ自身も「知識としては知っていた。でも、実際に自分がそのような気分にはまると、予想とはまったくちがった」と振り返ります。

頭で知っていても、当事者になると景色は一変する。もし今あなたや身近な誰かが長い夜の中にいるなら、本書の最後の言葉を渡したい。「夜は必ず、明ける」。

まずは今日、誰かに「がんばれ」と言いそうになったら、一度だけ飲み込んでみてください。


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