歩くと冴える思考と、歩くと鈍る思考がある
目次
「歩くと創造性が60%上がる」。この数字には、あまり知られていない続きがあります。
同じ実験の中に、歩いたほうが成績の下がった課題もあったのです。
ビジネス書でたびたび紹介される、スタンフォード大学の研究です。『天才たちのライフハック』も、ベートーヴェンの散歩の習慣と並べてこの研究を引いています。行き詰まったら外を歩こう、という助言の根拠として、すっかり定着しました。
ところが元の論文を読むと、話はもう少し込み入っています。歩いて伸びたのは「考える」力の一部だけでした。この記事では、歩くことが効く思考と効かない思考を分け、散歩と机をどう使い分ければよいかを整理します。
「考える」には、広げる作業と絞る作業がある
心理学では、思考を大きく2つに分けて扱います。
1つは拡散的思考です。答えが1つに決まらない問いに対して、案をできるだけ多く、いろいろな方向に出す働きを指します。たとえば新商品の名前を30個出す作業や、会議の議題を洗い出す作業がこちらにあたります。
もう1つは収束的思考です。条件に合う1つの答えに向かって、候補を絞り込む働きです。30個の案から1つを選ぶ作業や、計算の誤りを見つける作業が典型です。
ふだん私たちは、この2つを区別せずに「考える」とひとくくりにしています。そのため「散歩すると頭が働く」と聞くと、考える仕事なら何でも散歩で片づくように感じてしまいます。つまずきの出発点は、ここにあります。
歩いて伸びたのは、案を出す力だけだった
60%という数字の出どころは、スタンフォード大学のマリリー・オペッツォ氏とダニエル・シュワルツ氏が2014年に発表した論文です。最初の実験では、大学生48人が2種類の課題に取り組みました。
1つ目は代替用途テストです。ボタンやタイヤのような身近な物について、本来とは別の使い道を4分間で挙げていきます。拡散的思考を測る代表的な課題です。
2つ目は遠隔連想テストです。3つの単語に共通してつながる1語を探します。たとえば「cottage」「Swiss」「cake」なら、答えは「cheese」です。正解が1つしかない、収束的思考の課題にあたります。
48人はそれぞれ、何も貼っていない白い壁の前に座って解く回と、同じ壁の前でルームランナーを自分の好きな速さで歩きながら解く回の両方を経験しました。結果は、課題によってはっきり分かれています。
代替用途テストでは、81%の人が歩いたときに創造的な案を増やしました。増え方は平均でおよそ60%です。一方、遠隔連想テストで成績が上がった人は23%にとどまり、正答数は歩いたときのほうがやや下がりました。
論文の著者たちは、歩くことの効果は拡散的思考に選択的に表れ、収束的思考には表れなかったとまとめています。60%は案を出す力についての数字で、頭の働き全般が底上げされたことを示すものではありません。
景色がなくても効き、歩き終えた後も残る
では、歩くと何が起きているのでしょうか。外の景色や新鮮な空気のおかげだと考えたくなりますが、最初の実験の参加者は、室内で白い壁を見ながら歩いていました。それでも案は増えています。
歩くと口数も増えました。良い案も悪い案も含めた総数は、平均22.2個から33.1個へ、およそ5割増えています。量が増えただけでもありません。10個あたりに含まれる創造的な案も、2.5個から3.0個に上がっていました。
2つ目の実験では、歩いた直後に座って同じ課題に取り組んでもらいました。この人たちは、ずっと座っていた人より多くの案を出しています。歩いた効果は、座った後もしばらく持ち越されていました。
屋外の影響を切り分けた実験もあります。車椅子に乗って押してもらい、歩く人と同じ屋外コースを移動する条件を加えました。質の高い新しいたとえを1つ以上出せた人は、歩いた人で95%、座った人で50%です。景色が流れることも新しさには効いていましたが、質の高い案を支えていたのは、自分の足で歩くことのほうでした。
2022年に発表された別の研究は、理由の手がかりを示しています。体の動きを制限すると、歩いていても座っていても、案を出す力が落ちました。体を自由に動かせることが注意の向く範囲を広げているのかもしれない、と著者たちは考えています。
思想家たちは、歩く時間と机の時間を分けていた
フレデリック・グロ氏の『歩くという哲学』には、歩きながら考えた思想家たちが次々に登場します。ルソーは、散歩しているときでなければ何もできないと書き、机に向かうと想像力が湧かないと語りました。
ニーチェは、座っている時間をできるだけ減らせと説き、筋肉の関わらない思想には価値がないとまで言い切っています。長い日には、1日に8時間から10時間も歩いたといいます。
この2人の言葉だけを読むと、机は要らないように見えます。けれども同じ本に登場するカントの1日は、様子が違います。朝5時に起きて執筆し、昼からは来客と語らい、散歩に出るのは午後5時です。毎日同じ時刻に同じ道を歩いたため、「ケーニヒスベルクの時計」と呼ばれました。
カントにとっての散歩は、着想を探しに行く時間というより、書く時間と書かない時間を区切る規則でした。グロ氏は、その単調な繰り返しが精神に余白をつくったと読み解いています。
外山滋比古さんの『新版 思考の整理学』も、同じ分業を勧めています。外山さんは、思いついたことはすぐ手帖に書き留めよと言います。そして時間をおいて見返し、脈のあるものだけをノートに移す。案を出す場と、案を選ぶ場を、はっきり分けているわけです。
ベートーヴェンも、昼食後に紙と鉛筆を持って3時間から4時間歩き、浮かんだ曲想を書き留めていました。紙と鉛筆を持って出たこと自体が、歩く時間を集める時間と決めていた証拠だと私は考えています。
案を出す日は歩き、絞る日は座る
実験と思想家たちの習慣を重ねると、使い分けの方針が見えてきます。
誤解:行き詰まったら、とにかく散歩に出ればよい 正しいアプローチ:行き詰まりの種類を見分けてから歩く
案が足りずに止まっているなら、歩くのが向いています。たとえば企画のネタ出しや、文章の切り口探しです。反対に、候補はそろっているのに選べず止まっているなら、歩いても進みにくいでしょう。条件を書き出して比べるような絞る作業は、机で行うほうが実験の結果とも合います。
誤解:歩きながら考えれば、結論まで出せる 正しいアプローチ:歩く間は出すことに専念し、判断は机に持ち帰る
実験の参加者は、歩きながら案を声に出し、それを記録されていました。散歩で同じことをするなら、スマートフォンの音声メモや小さな手帖が役立ちます。良し悪しはその場で判定せず、まず残す。選ぶのは、外山さんの言う「時間をおいて見返す」段階でかまいません。
誤解:景色のよい場所まで行かないと効果がない 正しいアプローチ:近所でも室内でも、まず歩き出す
白い壁を見ながらルームランナーで歩いた条件でも、案は増えていました。わざわざ遠出をしなくても、会議の前に廊下を往復するだけで試せます。
ただし、この研究には限界もあります。参加者は大学生が中心で、各実験の人数は40人から48人ほどです。また全員が、感じのよい実験者に向かって声に出して答えていました。一人で黙って歩く散歩でも同じ効果が出るかは、論文の著者自身が今後の問いとして残しています。
おわりに
ルソーとニーチェは、歩くことで考えました。カントは、机で書く日々を散歩で区切りました。
今日の仕事は、広げる段階でしょうか。それとも絞る段階でしょうか。それを決めてから靴を履いても、遅くはありません。
この記事で参考にした本
『歩くという哲学』フレデリック・グロ氏 → ルソー、ニーチェ、カントらがどう歩き、どう考えたかを辿り、歩くことを思考の条件として描いた一冊
『新版 思考の整理学』外山滋比古さん → 思いつきを手帖に書き留め、寝かせてから選ぶという、考えを育てる手順をまとめた一冊
『1日ごとに差が開く 天才たちのライフハック』許成準さん → ベートーヴェンの散歩をはじめ、天才たちの日課を真似できる習慣として紹介した一冊
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