「自己肯定感を高めよう」。この言葉を、もう何度聞いたでしょうか。
でも、頑張って自分を肯定しようとして、うまくいかず、かえって落ち込んだ経験はありませんか。その苦しさには、ちゃんと理由があります。
『忘我思考』は、京都の禅寺・両足院の副住職、伊藤東凌さんによる一冊。問題は「肯定が足りない」ことではなく、肯定しようとしている「自分」のかたちそのものにある、と本書は言います。
この一文の角度が、私には新鮮でした。世のメンタル本がたいてい「もっと肯定しよう」と励ましてくる方向に、はっきり待ったをかけているからです。励ましてくる本を読むたび、肯定できない自分を責める材料が一つ増える——そんな悪循環に心当たりがある人ほど、この本の入り口は刺さるはずです。
こんな人におすすめ
- 自己肯定感を高めようと努力してきたのに、なぜか苦しさが消えない人
- データや論理で詰めて考えるほど、発想が広がらず行き詰まると感じている人
- トラブルが起きると「正解はどっちだ」と固まってしまい、動けなくなる人
- 瞑想やマインドフルネスを試したけれど、「心を落ち着ける」その先が知りたい人
どれか一つでも心当たりがあれば、本書はあなたの考え方の前提を一度ほぐしてくれます。
「梅干し」をやめて「トマト」になる
本書を貫く比喩が「梅干しからトマトへ」です。出し惜しみせずに核心から書きます。
梅干しは、固い種を真ん中に一つ抱えています。この種が、私たちが守ろうとする「確固たる自我」。ブレない芯を持つのは一見強そうに見えます。けれど、固い核は、強い圧力がかかったときにあっけなく砕ける。一点に重みを集めているぶん、そこが折れたら全部が崩れてしまうのです。
「固い種を閉じ込めた梅干しのような自己を、柔らかな果肉にいくつもの小さな種を散らしたトマトのように、解きほぐす」(伊藤東凌『忘我思考』)
トマトには、柔らかい果肉の中に小さな種がいくつも散らばっています。一つの強い核ではなく、小さな強みが分散している状態。一部が潰れても、全体は損なわれません。著者はこれを「多極分散的な自己」と呼びます。
ここで著者が突くのは、自己肯定感をめぐる根本的な勘違いです。多くの人は狭い「自我」を真ん中に据え、それを肯定するか否定するかで苦しんでいる。
「『自我』を肯定しようとして『自己否定感』に苦しんでいる」(同書)
つまり、肯定が足りないのではなく、問いの立て方そのものが間違っている。一つの固い自分を肯定しようとするから、否定感が湧く。だったら、自分を一つの核として握りしめること自体をやめればいい。
本書はこの発想の転換から始まります。私が膝を打ったのは、これがいわゆる「ポジティブシンキング」とは別物だという点です。無理に明るく考えるのではなく、明るく考える対象である「自分」のほうを、もっと風通しのいい構造に組み替えてしまう。
土台を変える話なのです。
心を「認識の王座」から引きずり下ろす
では、固い自分はどうやってほどくのか。第1章で著者がまず手をつけるのは「心の置き場所」です。
私たちは「心」や「目に映るもの」を、自分という人間の本体だと思い込んでいます。でも、心を真ん中に置きすぎると、自分のマイナス面ばかりが気になってしまう。著者はこれを「心中心主義」の落とし穴と呼びます。
仏教には「六根」という考え方があります。眼・耳・鼻・舌・身・意。視覚から触覚までの五感に、心(意)を加えた六つが、人間の認識のよりどころです。
それなのに現代人は、このうち「心」と「眼」だけを王座に据え、残りを軽んじている。情報の大半を文字と映像から取り、匂いや肌触りや味をほとんど使わずに一日を終える——言われてみれば、確かに思い当たります。
著者の提案はシンプルです。心の占有スペースを六分の一ほどに縮小して脇へずらし、空いた場所を五感からの情報で満たす。鳥の声、風の匂い、お茶の味。
それらを丁寧に味わうと、頭に閉じ込めていた「自己」の感覚が、全身へ、さらに外部へと広がっていきます。著者はこれを認識の「民主化」と表現します。
心という独裁者に支配された状態から、五感へ権限を分け与える、というわけです。
個人的に面白かったのは、その練習場所として「静かな場所」ではなく、サウナや満員電車を推している点でした。100度に迫る熱気の中や、地下鉄のがやがやした雑音の中では、理屈をこねる余裕がなくなり、感覚が強制的に開かれる。
瞑想は静寂でなければ、という思い込みを軽く裏切ってくれます。むしろ「整えてからやる」のではなく、整わない場所でこそ訓練になる。忙しい人にとっては、これはありがたい逃げ道のなさです。
脳科学が裏づける「私は一人ではない」
「自分は一つの存在だ」という感覚を、禅の言葉だけでなく脳科学の側からも崩してくれるのが、受動意識仮説です。
慶應義塾大学の前野隆司教授が唱えた説で、本書でも重要な位置を占めます。脳は中央集権的なシステムではなく、神経細胞のモジュール、いわば「小びとたち」の自律分散的なネットワークだと考える。
意思決定は、その小びとたちの多数決のようなもので、「意識」は決定が下されたあとに川下からそれを眺め、「自分が決めた」と錯覚しているだけの存在にすぎない——そう捉えます。
意識が脳の独裁者だという常識を、この仮説はひっくり返します。そして、この「中心のなさ」が、禅の「無我・多我」の洞察と見事に符合する。だから著者はこう言い切ります。
「人はとかく自分を『一』なる存在と思いたがるものですが、仏教的にいえば、それは大きな間違いです。あらゆる『多』との絡み合いの結果として存在するのが(中略)人間なのだ」(同書)
作家・平野啓一郎さんの「分人」という概念も、ここに重なります。相手や状況に応じて、自然に複数の顔が立ち上がる。家族の前の自分、職場の自分、旧友の前の自分。
どれも本物で、どれも全部ではない。一つの「本当の自分」を探して縛られるより、状況ごとに立ち上がる複数の自分を受け入れるほうが、人間関係のストレスを受け流す力になる。
禅の直観を、現代の言葉で二重に裏打ちしてくれるこの構成は、信じやすさという点でよくできていると感じました。
「ないもの探し」をやめ、「あるもの」に気づく
第4章は、禅とは可能性を信じ抜くことだ、という話です。
人間の意識には、放っておくと「ないもの探し」をする性質があります。生きるために不足を埋めようとする本能ですが、これが寂しさや欠落感を生む。皮肉なことに、優秀な人ほど欠けを補う能力が高いので、かえって「ないもの」に目が向きがちだといいます。
仕事ができる人ほど自分に厳しく苦しい、という光景を思い浮かべると、腑に落ちます。
著者が紹介するのは、ADHDと診断されいじめに苦しんでいた小学4年生の話です。「自分のいいところを考えよう」という学校の課題に、その子はただ一言「生きてる」と書いた。思い詰めていた母親は、ただ生きていることの尊さを再認識し、深い幸福を感じたといいます。
「無限の可能性は何もない状態の向こうにこそ開けているといえます」(同書)
何もないことは、虚無ではない。新しい縁や機会を迎え入れる余白なのだ、と著者は視点を反転させます。ここは精神論に流れかねない箇所ですが、「ないもの探し」を本能として説明したうえで反転させるので、根拠のない気休めには感じませんでした。
答えを出すより、問い抜く
本書の後半が向かうのは、正解のない時代との付き合い方です。
「生きる上で、ただ一つの正解が用意されている問題はまずありません」(同書)
「正解か不正解か」に線を引きたがる二元論のパターン思考が、かえって現代人の心を消耗させている。答えを出すこと以上に、問い続けるプロセスそのものに価値がある、と著者は言います。
その実践として勧められるのが、簡単には答えの出ない、一生考え続けられる「座右の問い」を一つ持つこと。著者自身の問いは「今日来た人も100年後の人も心を動かす、両足院の美とは何か」だそうです。
日常向きなのは、トラブルに直面したときに「これは何のレッスンだろうか」と状況を放り込む問い。これは明日からでも真似できます。
第6章では、思考を深める対話の技術——ソクラティック・メソッドが語られます。相手の言葉の定義を丁寧に問い、質問を重ねて互いの思考の幅を広げる方法です。
ここで著者は意外なことを言います。会話を本当に支配しているのは、ペラペラ喋る人ではなく、聞き上手でたまにボソッと質問をする人だ、と。喋る人はむしろ喋らされている。
的確な問いを投げる人こそが、対話の展開を握りブレークスルーを生む。だから対話の基本ルールは「疑問点は必ず質問する。わかったふりをしない」になります。
会議で饒舌な人に主導権があると思い込みがちな私たちには、効く視点です。
言葉をほぐす「EXPメソッド」
そして、この「問い抜く」を訓練として体系化したのが、本書の実践的な中心であるEXPメソッドです。経験値(EXP)を高める4つのステップで構成されます。今回はステップの中身まで紹介します。
まず、自分が気になる言葉、あるいはあえて苦手な言葉を一つ選びます。「優しさ」「挫折」「成功」「ストレス」など。それを次の順で深掘りします。
- 探索(Exploration)——その言葉について、これまでの人生の出来事や、反対の意味を自分で考える。目安は7分。
- 表現(Expression)——その言葉を色や形、温度で表すと何か。イメージを膨らませる。目安7分。
- 実験(Experiment)——その言葉を、服のコーディネートやアート作品など、具体的な行動にどう活かせるかを試す。目安10分。
- 展開(Expansion)——それを他者とどう共有するか、世界がどう変わるかへと広げる。目安10分。
普段なんとなく使っている言葉を、こうして因数分解していく。すると曖昧だった概念の輪郭がはっきりし、自分の中の空白領域、つまり思い込みに気づけます。
「成功」という言葉を7分も掘り下げたことがある人は、ほとんどいないはずです。やってみると、自分が何を成功と呼んでいたのかが、思いのほか他人からの借り物だったと気づく——そういう設計になっています。
このメソッドの種になったのが、著者がコロナ禍の2020年4月に始めたオンライン坐禅会「雲是」です。「愛」などのテーマを設定し、参加者に多面的な問いを投げかけた。約2年半で47カ国の人が参加する場へと育ち、そこからEXPメソッドが生まれました。
タイトルの「忘我」は、この問いを突き詰めた先にある境地を指しています。答えが出ようが出まいが問い抜く。その果てで固い自我の枠が外れ、我を忘れる。EXPメソッドは、そこへ向かうための具体的な訓練なのだと著者は位置づけます。
長期目線の「利己」は、めぐって「利他」になる
本書がもう一つ強調するのが、視野の広さです。時間的にも空間的にも視野を広げると、他者のために動くこと(利他)が、めぐりめぐって自分のため(利己)になることが自然と理解できる、と著者は言います。
著者の知人の経営者は、惜しげもなくお金を使ってライバルすら利するような行動を取り、結果として好循環を引き寄せているそうです。「すべてはつながっている」という禅の実感に根ざした、長期目線の超利己的な行動。
SDGsの発想とも深く重なる、と本書は位置づけます。短期の損得勘定で疲れている人には、視野の物差しを伸ばすだけで楽になる、という処方箋でもあります。
どんな人に、どう効くか
読み終えて思うのは、この本は「自分を変えよう」と頑張りすぎて疲れた人にこそ効く、ということです。
肯定でも否定でもなく、握る力をゆるめる。その方向に背中を押してくれる本は、意外と多くありません。梅干しからトマトへ、心を王座から下ろす、問い抜く、利己が利他になる——どの章も「中心を一点に集めない」という同じメロディを、角度を変えて奏でています。脳科学の受動意識仮説や平野啓一郎さんの「分人」といった補助線も用意されているので、「自分は一つではない」という感覚を、禅の言葉だけに頼らず多面的に納得できます。
一方で、即効性のあるメンタル改善メソッドだけを最短で欲しい人や、ブレない確固たる自我の作り方を学びたい人には、回り道に感じられるかもしれません。禅的な比喩や問いをじっくり味わう姿勢があってこそ、本書は深く入ってきます。
明日まず一つやるなら、寝る前の1分、考えるのをやめて、聞こえてくる音に耳をすませてみてください。我を少し忘れる。その小さな練習から始まります。
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