交渉が苦手です。
正確に言うと、ずっと「自分は押しが弱いせいだ」と思っていました。相手を言い負かせない、切り返しが遅い、気の利いた反論が出てこない。だから商談や社内調整のたびに、どう言い返すか、どこを突くかばかりを頭の中でシミュレーションしていました。
それなのに、いざ始まると感情的になって、結局まとまらない。橋下徹さんの『交渉力』は、その思い込みを最初の数ページで壊してきます。
弁護士から大阪府知事・市長まで、数えきれない修羅場を潜ってきた人の言葉だからこそ、重い。本書の主張を一言で言えば、こうです。
交渉の勝敗は、交渉が始まる「前」に、すでに9割決まっている。
相手をどう動かすかの前に、自分が何を捨てられるか。地味で、でも実行が驚くほど難しい話を、橋下さんは具体例で押し切ってきます。

最大の敵は、相手ではなく「自分の欲」
本書の核心は、拍子抜けするほどシンプルです。
交渉は、「相手との闘い」のように思われているが、実際には「自分との闘い」だ。
最初に読んだとき、正直「は?」と思いました。交渉相手は明らかに目の前にいるのに、なぜ自分との闘いなのか。
橋下さんの理屈はこうです。交渉が難しい本当の理由は、相手を説得することにはない。自分自身の「あれもこれも欲しい」という欲をコントロールし、「絶対に譲れない一つの目標」のために、他の要望を捨てる決断を下すことにある。
つまり、相手を言い負かす技術よりも、自分の欲を捨てる技術のほうが、はるかに重要だということです。
これは耳が痛い指摘でした。私が交渉で感情的になっていたのは、相手が強かったからではなく、自分が何を本当に欲しいのか整理できていなかったからでした。欲しいものが曖昧だから、相手の一言一言に心が揺れる。整理さえできていれば、提示された条件を淡々と判断できるはずなのです。
橋下さんは、世にあふれるゲーム理論やハーバード流の交渉術を「理知的な相手を前提にしている」と切り捨てます。現実の交渉相手は感情的で、理屈が通じず、何を考えているかわからない。
複雑な点数化を駆使する交渉論は、終わった交渉を後から説明する「後出しじゃんけん」にすぎない、と。この身も蓋もない断定が、本書の生々しさの源です。
成功の9割は「要望の整理」で決まる
では、何を準備すればいいのか。答えは、要望のリストアップと仕分けです。
橋下さんの手順は明快です。まず、その交渉で得たいものを全部書き出す。次に、それを「絶対に譲れない」と「譲ってもいい」の2つに分ける。そして「絶対に譲れない」を1つか2つに絞り込む。
ここに、本書で一番効くロジックがあります。
要望が10個あったとして、絶対に譲れないものを1つに絞れたら、残りの9個はすべて「交渉カード」に変わる。
手持ちのカードが9枚もあれば、交渉は一気に楽になります。逆に、10個全部を「絶対に譲れない」と握りしめていたら、差し出せるカードは0枚。これは詰みです。
橋下さんはこれを「要望と譲歩のマトリックス」という形に落とし込みます。自分と相手、それぞれの要望を「譲れない」「譲れる」に仕分けて表にする。たったこれだけで、自分が何にこだわっていて、どこを譲るべきかが一目でわかる。
人はあれもこれも手に入れたくなる生き物です。でも10個全部を取りにいった瞬間、交渉はまとまらなくなる。たくさん取ろうとした人ほど、結局何も取れずに終わる。一つに絞った人だけが、その一つを確実に手に入れる。この非情なまでのトレードオフが、本書を貫く太い背骨になっています。
「先に譲る」が、実は主導権を握る
ここが、読んでいて一番意外だったところです。
譲歩のカードを切り合う場面では、まずは自分のほうから譲歩のカードを切ることが交渉をリードする。
普通の感覚では、先に譲ったら弱腰に見える。負けた気がする。でも橋下さんは逆だと言います。先に大きく譲ることで、相手に「借り」を作り、交渉の主導権をこちらが握れる、と。
トランプ前大統領の例がわかりやすい。日米首脳会談の前、トランプは「日米同盟は不公平だ」「駐留経費をもっと払え」と圧をかけ、米軍撤退の可能性までちらつかせて日本側を不安にさせた。ところが会談が始まると、いきなり「日米同盟は同盟の模範だ」と安全保障を約束してみせた。
日本側が一番欲しかったカードを、あっさり先に切ったわけです。これで日本側に借りができ、トランプが本命とする「貿易赤字の是正」で譲歩を引き出しやすくなった。
ここで強調しておきたいのは、これが成立する前提です。「何を捨てて、何を取るか」が事前に整理できていなければ、先に譲る勇気など出てこない。先に譲るのが強いのではなく、整理ができている人だけが先に譲れる。やはり、すべては準備に帰着するのです。
自分は損せず恩を売る「仮装の利益」
相手に利益を与えるのが交渉の基本。でも、自分が損をしては意味がない。この矛盾を解くのが「仮装の利益」というテクニックで、私はここに一番うなりました。
仮装の利益とは、自分には負担も持ち出しもないのに、相手には大きな利益に見える環境を作り出すこと。
具体例が秀逸です。最初にわざと厳しい期限を設定しておく。交渉の途中で相手が困ったら「期限を延ばしましょう」と申し出る。こちらは最初から延ばすつもりだったとしても、相手は「助かった」と感じ、こちらの要望を受け入れやすくなる。
ポイントは順番です。先に相手が困る状況をあえて作り、それを取り除く。同じ「延ばす」でも、最初から緩い期限を出すのと、厳しい期限を後で緩めるのとでは、相手の感じる利益がまるで違う。
橋下さんは、これをトランプの対中関税にも見ています。中国に関税を25%引き上げると強硬に突きつけ、その後で見送る。困らせておいてから取り除くことで、利益を与えたように見せる。
会社員でも応用は効きます。自社にとってはコストゼロなのに取引先にはメリットになる条件、たとえばスケジュールの柔軟性や権限内の特例対応を、譲歩のカードとして手元にストックしておく。これが仮装の利益の作り方です。
対立して平行線になったら「分解」する
それでも意見が真っ向からぶつかり、平行線になることがあります。そこで使うのが「要素の分解」。賛成か反対か、A案かB案か、という抽象的な議論をやめて、問題を細かいパーツに切り分ける技術です。
たとえば「地下鉄民営化に賛成か反対か」で対立しているとする。このまま議論しても平行線です。でも分解すれば、運営会社の形態、職員の雇用条件、路線の拡張計画、運賃の決定方法、といった要素に分かれる。
要素ごとに見ると「ここは賛成」「ここは反対」と細かく割れていて、全面対立に見えても実際には一部しか対立していないことが多い。
橋下さんは大阪府の予算改革でもこれを使っています。「警察官の給料を守るか、一律カットか」で激論になったとき、「給与はカットするが、人数はカットしない」と要件を分解して合意にこぎつけた。
価値観や思想がぶつかったときも同じです。
要望・譲歩の整理ができていないと、交渉にお互いの「価値観」「思想・信条」「哲学的なもの」が入り込むことが多くなる。それらが入り込むと、交渉がまとまらなくなる。
歴史認識のような理念は横に置く。事務的な要素に分解して、譲れる・譲れないのカードを切り合う。価値観を一致させる必要はない。ここは、感情論で消耗しがちな日常の議論にもそのまま効く知恵だと思います。
「お願い」と「いったん退く」勇気も交渉力
橋下さんは、相手を動かす手法は3つしかないと言い切ります。利益を与える(譲歩する)、合法的に脅す、そしてお願いする。
3つ目の「お願いする」は最終手段です。利益も脅しも通じないなら、理屈ではなく頭を下げるしかない。橋下さんは駆け出しの弁護士時代、東京のテレビ番組に高めの出演料を提示して一度は決裂した。
でもチャンスのために自ら要望を取り下げ、再交渉をお願いして出演にこぎつけた。その知名度が、後の選挙の勝利につながっています。
決裂してゼロになるくらいなら、譲れないラインを少し動かしてでも頭を下げる。その潔さも交渉力だ、と本書は言います。
逆に、退く判断も同じくらい重要です。橋下さんが最も大事だと言うのは、己の「力」を的確に把握し、負け戦を避けるために躊躇なくいったん退く判断力。一度YESと言っても、引き返す勇気を持つ。攻めることばかりが交渉力ではない、というバランス感覚に、修羅場をくぐった人の凄みを感じます。
なお、合法的に脅す手は強い権限を持つトップだから使える面があり、本書も正直に限界を認めています。一介の会社員が他部署や取引先にそのまま使えば、ハラスメントや優越的地位の濫用になりかねない。脅しは敵対的交渉でこそ機能し、協調的交渉で使えば逆効果になる、と釘も刺されています。
握手で終われない交渉は、次がない
どんなに激しく戦っても、本書が最後に守れと言う原則が一つあります。
たとえ決裂しても、相手を侮辱しない。お互いの労をねぎらって、最後は握手で別れる。橋下さんは石原慎太郎さんと政党で別れたときも握手で終え、その後も電話をかけ合う関係が続いたと書いています。逆に、侮辱し合って別れた相手とは二度と連絡を取らなくなった。
交渉は一回で終わりではない。次がある。だから相手が本当に困っているとき、それ以上ガンガン押し込まないことも交渉力のうちです。目先の小さな利益のために追い詰めれば、長期的な評判のほうを失う。
本書を読んで、自分の交渉が下手だった理由がやっとわかりました。相手を見すぎていたのです。本当に向き合うべきは、あれもこれも欲しがる自分の欲だった。
次の交渉の前に、まず紙に要望を書き出してみる。そして、どれか一つだけを赤で囲む。残りは全部カードだと割り切る。それが、結果を変える最初の一歩になるはずです。
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